2011年9月24日土曜日

米沢攻め・・・前田慶次郎墓参り



行ってきました、米沢藩。

前田慶次郎の墓参りに、シマジロウではなくて、島左近こと前田慶次郎利則殿と、愛馬「松風」にまたがり、台風15号をものともせず、片道540キロ、激しく雨の降る中を、疾風怒濤の攻めでござった。

朝7時半に越前の国・三国湊を出立し、夕刻3時半に、前田殿ゆかりの地、堂森の善光寺にたどり着いた。

今年は前田殿の400年大遠忌が、6月にこの地で執り行われたそうで、境内には、こそここに幟が立っておった。

しかし、3連休のあとのこの日、境内には人っ子1人おらず、名物・しゃべり好き・和尚も顔を出さぬ、静かに雨音だけが、我らを迎えてくれた。

しかし、これも前田殿の遺徳を忍ぶ雨。詩歌に長けた前田殿をして風流極まりない極上の日でござった。ごちゃごちゃ人がおっては、静かに瞑目もできぬ。

それでは、さっそく島殿は、持参の「大ふへんもの」マントを羽織り、身の丈8尺の朱槍を持ち、供養塔に向かって、深く一礼し、前田慶次殿の遺徳を偲んだ。










続いて、拙者「捨丸」も深く頭を垂れた。












供養塔の中には、朱塗りのたばこ盆と、大ぶりなキセルが奉納してあった。











しかし、なおも雨は止むことを知らず、台風の前線から容赦なく雲がたれる。

時、すでに夕刻。だんだんと暗くなり始め、今宵はこれにて退却かと思ったが、明日をも知れぬ我が身、ここは一発、慶次の最後の住まい「無苦庵」の跡にある、「慶次清水」を訪れることとした。

しかし、この場所がなかなかの曲者でござった。雨降りしきる中、人気のない野球場の周囲を探索するも、一向に見つからず、島殿も半分あきらめる中、一踏ん張りした甲斐があって、ようやくと道を見つけた。


かような、薄暗き、ぐちゃぐちゃの道を進むこと150メートル。

ようやくに慶次清水にたどり着く。












立派な道標も立っておった。












これが慶次清水で、今もこんこんと湧いておる。

前田慶次殿は、この水で生活しておったのかと思うと感慨深いものがござった。

ここで、島殿と捨丸は、慶次が著した「無苦庵記」の一節を、声高らかに読み上げ、供養とした。

『そもそも、この無苦庵は、孝を積むべき親もなければ、憐れむべき子もなし。・・・中略・・・九品蓮台に至らんと思ふ欲心なければ、八萬地獄に落つべき罪もなし。生きるまで生きたらば、やがて死ぬるでもあろうかとおもふ』

これにて、このいくさの目的は達せられた我らは、静かに宿に寄宿した。しかし、米沢といえば米沢牛。食せねばなるまい。

かくして、前田慶次殿の供養のため、米沢牛のすき焼きを、遺徳を偲びながら、食したのでござった。

甘露甘露



明くる朝は、やはり雨。しかも、越前の国に、台風が刻一刻と迫り来る。

島殿と相談の上、ここは前田慶次殿に見習い、殿(しんがり)の退却戦を挑むこととなった。

幸いというか不幸にもというか、宮坂考古館は臨時休業、お土産屋も10時にしか開かない。

上杉神社にて、退却戦の幸運を祈り、9時半に、越前を目指し出立した。

ひとたび、会津・喜多方藩をめざし南下するも、峠は大雨で通行止め。西に転じ、海を目指した。ホントは喜多方らうめんを食してみたかった。往路で便利店の女生に「くるくる軒」というお勧め店を調査済みであったのに・・・

往路に続き復路も大雨の中、加賀藩の高速街道も通行止めとなる中、無事に夕刻5時半に越前三国に帰投した。

さっそくCP丸の無事を確かめに参ったが、増水のため、船はいつもより1メートルも高い位置にあって、ちと驚いたが、無事で良かった。

かくして、米沢攻めは台風との戦いになってしまったが、慶次殿に習っていえば「大雨で難儀した。だが、それがいい。」ということになる。

往復1100キロ。16時間の早馬。墓参りの所要時間がたった1時間。だが、それがいい。

2 件のコメント:

島左近 さんのコメント...

貴殿の助太刀に「終生の友を得たりと」感謝しており間する。
また傾き通そうぞ!

cp さんのコメント...

そのとおり、死ぬるまでは友として助太刀するでござる。
傾き通すことは楽しい!